つげ義春風の夢の話

私は割りによく夢を見る方で、特に神経症になってからはある種のイマージュに悩まされるようになった。
大体に於いてそのイメージは女にまつわるものであり、そのたびに私は未だある種の女に囚われ続けている事、自分では悟りきったと思っても未だに反復し続けていると言う事を身体的に理解するのだ。
多くの夢において、私の自由意志は存在していない。

私は大学に入って少し読書量も上向いてきてから、古本道楽の趣味ができた。
年に何回かある古本市にスノッブでなく、楽しんで参加できるようになってから(特に思想書は絶版も多く、割高であるが、目的のものをよく見つけられるようになっていた。)、好んで古本市に出かけるようになっていた。
さて、今日も古本漁りに熱中している私は地元に帰って来、出身の高校で開催された古本祭りに参加しているらしい。
露店は迷路のように入り組み、そして実際それは参加者を楽しませるための迷路らしいが、青色のしきりで仕切られていた。
学校は地理的条件は港からほど近い下町と言う、実際の私の高校そのものでありながら、事実として形容は中学校や小学校に近く、坂道に面している。
しかし、ついでに言うならば、事実としての高校は文化的廃墟とでも言ったらいいようなもので、古本市などと言う粋な催しを開催した事はなく、ほとんどかけ離れているのだ。
であるならば、この夢の中の古本市の学校は、全く虚構のいずれと知らぬ学校に相違ないだろう。

古本市の店じまいの時間もほど近くなった頃、私は坂道に面したはしっこの露店で古雑誌の類や古新聞の類を漁っていた。
恐らく、当時の文藝春秋や戦後まもなくの群像なんかだったと思う。
ついでに言えば、この夏季休暇に入る前に私は、研究のため、プロレタリア文学関連の新聞や雑誌を随分散策していた。
私は直接事実から細かな事象を拾いあつめると言う事の面白み、研究の面白みを理解しはじめたのだった。
実家のある地元に帰ってまでも古本漁りを続ける私を家族は呆れているらしかった。
私が興味を引かれたのは、一冊の古新聞だった。
確かそこには当時の戦後の共産党の論争が随分大きく載っていたのだと思う。
しかも安かった。
これを逃す手は無く、そして、今確保しなければ、いつお目にかかれるか知れたものではない。
しかし、店主はいない。
古本市ももうそろそろ店じまいの様相であった。
仕方なく、私は隣りの犬を連れた中年男性に尋ねた。
「すいませんが、店主はどこでしょうか。」
「それならば、向こうの下町のレコード店にいるよ。」
私はどうしてもレコード店にいかなくてはならぬはめになった。
そのような場所には縁もゆかりもなく、どちらかと言えば苦手だったが、このままこの古雑誌と古新聞を持ち去ってしまえば、それは立派な万引きになる。
私はどうしても店主とかけあわねばならぬのだ。
そして、店主とかけあってみれば、不釣り合いな値段もつけ間違いと知れるかもしれぬ。

気付けば学校の側の坂道に先程の犬(ダックスフンド犬だったと思う)が、中年男性にほっておかれ、腹をアスファルトに引き摺りながらこっちを見ている。
そうすると先程の中年男性が店主だったわけだ。
私は犬を頼りに、レコード店まで出かける事にした。
犬を散歩させるのは慣れない体験だったが、犬は私を引っ張ってどんどん行き、なんなくレコード店まで辿り付けそうだった。
辺りは軍港に近い港町で下町と商店街が広がっていた。
それは事実以上につげ義春的風景に見え、夕焼けに映えて、シュールレアリズムな光景に見えた。
しかし、この辺りの下町に親父あたりならノスタルジーもあろうが、私にはとんと無縁な土地だった。
私にある思い出と言えば、高校の頃面白がって無愛想な友人とどこまでも歩いた思い出だけだった。
友人は遂には寺にまで入って行った。
随分ゆかしい伝統のありそうな寺だったと思う。
学ランに身をつつんだ私達はすぐさまそこの奥さんに「何か」と誰何された。
この辺りの寺は完全に葬式仏教なのだろう、観光客などに開放もしていないのだろう。
私と友人は曖昧に笑って、すぐさま立ち去った。
友人は不機嫌そうに見えた。
彼は分かち難い無愛想であり、私の阿呆感を到底受け入れぬ無愛想であった。
しかし、ともかくも父はこの辺りで少年時代を過ごしたはずである。
あるいは事実としてはそんな商店街広がってないのだろう、架空の町の記憶なのだろう。
犬が匂いに引きつけられてしょうがないので、肉屋でコロッケを買って、わけあって食べた。

ある日父が二重焼きの露店のおじさんと祖父の事で喧嘩したのを思い出した。
あれだけ温厚な男が他人に怒るなど珍しい事であった。
あるいは、久々にねだられて連れて行った昔馴染みの散髪屋で気まずい思いをしている父も思い出した。
父が繰り返し話した、地元の下町の思い出、近所づきあいなどはもう彼にとっては遠い記憶であり、そして甘美であると同時に現実には再会の難しいものになりはてたのかもしれない。
そうだとすれば、私が感じている地元との距離感も結局は父も同様に感じており、私の考える温かい地元をまだ知っている父親と言う像も一つの偶像に過ぎないのであろう。
そうこうしているうちに本当にレコード店についた。
犬は私を見事連れて来たのだ。
レコード店は半分コーヒー屋のようであり、狭い店内に所狭しとレコードと本が並んでいたが、しかしここではうまいコーヒーと読書ができそうであった。
事実としてそんなこじゃれた店があるのかどうか、私は知らない。

店の前には自転車にまたがった女がおり、入ろうとする私を止めた。
私はなにやらこの女と面識があるような気が最初からしていた、あるいは同級生。
「何の用?」
「古本市のこの雑誌なんだけどさ、値段聞こうと思って。聞いたら、ここだって言うから。」
私にしては珍しく、女に対してすらすらと言葉が出て来た。
「ふうん。聞いて来てあげるよ。」
店の中に入って、女は店主と話しをするようである、あるいは店主はまた留守かもしれない。
私は「お前もたまにはいい事するじゃないか」と言う風に犬を見た。
犬は不思議そうに見上げるばかりであった。
店から再び出て来た女は冷たかった。
「○○円だってさ。」
その値段は市の値段より少し高かった。
私はまた、それらを買うかどうか思案しはじめた。それは手がでないと言う程ではなかった。
「そんな古い本買ってどうするの?」
「どうって、読むのさ。古い雑誌なんて、おもしろいだろう?」
女は何か怒っているように見えた。
「犬なんか、可愛がんないでよ。」
すれば、犬に愛想よさそうにしていた女は私の勘違いだったわけだ。
犬も役に立たないが、それにしてもここまで連れて来てもらった犬と私の間には友情がある。
「犬にあたるなよ。」
女は私を睨みながら、言った。
「犬なんて……。あんたにとってはこれが二度目じゃない。」
私は眼を覚ました。

この言葉には二つの意味があると私は考えた。
一つは女は私が犬を自分の代りに可愛がっていると思っていると言う意味だ。
女は恐らく過去、私に捨てられたのだろう。
しかし、私にはその覚えはない。
そうすれば、女は恐らく父と関係のあった女性なのだろう、あるいは私の前世か。
二つ目は、女に言わせれば、私のこの夢全体が二度目であると言う意味である。
私が二度目にここに来て、そして、再び女と恋愛関係に陥ろうとしている。
あるいは、前世の私は父であり、父として女を愛したのだ。
そして、今再び子としても女を愛そうとしている。

夢判断は専門じゃないが、久々に哲学的な夢を見た気がした。