『ムショクリリック』感想――山の中の無職

こないだ東京に行ってどかいさん@dokai345 と鳥貴族へ行ったら、ムショクリリックが貰えた。
せっかくなので遅かりながら感想を書いておこうと思う。


〇磯崎愛『四月になればムショクは、または奥様は魔女じゃない、目下のところ』
主婦ではなく、無職と名のりたいと考える人の小説風手記。
なんだか接客スキルやコミュニケーションスキルはある人らしいが、どうもそれが社会生活を営む上でうまく機能しないらしい。
その辺が僕のような虚無型無職、ないないずくし――嗚呼友達ゃいねえ、嫁いねえ、職はそれほど働いてねえ――の人間には想像しづらかった。
「小説を書け」という勧めは、無職は医者にはよく勧められる。
「どっぷり小説のこと十何年考えた挙句、ろくに小説書けません。
これだけ文章読んでこれだけ書くのが下手なのは、僕だけだと思います。」
と医者にがなりたくなるが、まあ、テロに走るよりは、小説家になるという野心はお勧めできる選択肢だ。
政治的な解釈だが、この人の無職感はジェンダーに起因しているのではないだろうか。
主婦や家事手伝いにはどうしても成りたくないという意志、あるいは成れないという状況。
絲山秋子笙野頼子ニートものを連続して書いているし、僕が読んだ現代女性作家でも非正規労働の作家は多かった(津村紀久子とか)。
何かそういう、不定形の、認識不能のバイアス、かと言って社会に還元できそうにもないバイアス。

笙野頼子三冠小説集 (河出文庫)

笙野頼子三冠小説集 (河出文庫)

ニート (角川文庫)

ニート (角川文庫)


〇窓際冬子『アダルトビデオ製作者の日常』
本当にモザイク消しのバイトってあったんだ、いや、まあ誰かが消さないといけないしな…、とういエッセイ。
デスクワーク作業らしいが、ここ半年近くバイトでさえもやっていない僕にはそれすらつらそう。
「この仕事してると男に腹たってくる」の章が面白かった。
先輩との休憩時間の何気ない会話に本質があり、ああ、この先輩もこの後は黙々と仕事するんだろうな、みたいな日常感。
モザイクは傷つく女性を隠すこともあり、「モザイクってありがたいんだ」が執筆者の結論だが。
なにか労働者こそが真実を見ているという設定はニューロマンサー士郎正宗の世界だ。


〇寶達揉由『個として切れるための読書術』
ニューアカを知的であることとポップであることの連帯と読む。
その上で30年代の横光利一の発言から、尖端とは退屈なものであると結論する。
横光の尖端は退屈との言は言い得て妙で、何かしら二十世紀時間論的な解釈が隠されているのか、
はたまたハイデガーやアランの引用なのやら迷う。
それならば横光の段階に知とポップの連帯もまた隠されていたわけだ。
そのポップの退屈から逃れるために執筆者は読書術を主張するのだが。
それがドイツ系教養主義とは反する「修養」なのである。
この「修養」については僕も一家言ある。
知識人を累出してきた教養主義とは違い、修養とは民間の、サラリーマンの、天皇制下の、庶民の倫理や生活知という側面が強い。
宮沢賢治を牽引した島地黙雷から資本家増田義一、植民地リベラル新渡戸稲造の修養書まで、もっとも修養の語源は漢書なので、口承としての修養は遡るのだが…。
結局、戦争と接続されて修養主義はうさんくさいものになってしまったのだが、執筆者の結論はよく見えなかった。


〇めんげれ『僕を救ってくれなかった東浩紀へ』
僕は東クラスタではないので、いまいち盛り上がれなかったのだが、少しクラスタの現況が耳に入ったようで、なんとなく無聊が癒される。
精神分析全般が手をだすと大他者論になって、どんどん隘路に追い込まれていく気がする。
とはいえ、僕もそんな気分になる時はある。
フロイトは随分不幸な人だったように思い、僕はドゥルーズ以来精神分析全般を人を足萎えにさせてしまうものとして、なんとなく信用できない思いがある。
認知心理学療法とかならまた別の結論も出そう。


〇yasagon『青年よ、サブカル俗流教養主義を捨てて、同人誌で射精しろ!』
シニカルに振る舞い、サブカルツイートするより、射精報告するTwitter界隈のほうがクールという論旨。
ポスト宇野常寛が探し求められているのだが、僕はある時期から知識人と大衆というような構図が受け付けなくなったのだなと思った。
吉本隆明のような原像をもった批評というようものが、突き崩されて、何もなくなったような印象。
一方、大衆はポストマルクス主義的に分断されて、誰にも総体として捉えられなくなり、かと言って大衆がクールなものを追い求めるのは普通の感性だろうとも思ったりする。
私事だが、とかく最近Twitterでつぶやくことが思いつかない。
曖昧な日常ツイートをぽつぽつとしたりしなかったりするのだが、(だってお前ら俺が本気で文学ツイートしても2ふぁぼぐらいしかしないじゃん!)
安保法案が可決した日も一日中鬱で江口渙の肺病とか思い出して、知識人もかわいそうな生き物であることを思い起こしたりした。
人間は良心的であることを追い求めてほしいので、ネット右翼ツイートが流れてくるたび腹立たしいのだが、まあ右翼の知識人もこれから生まれてくるかもしれない。
まあ、僕は射精報告まで正直になれないですよ。
オタク的ホモソーシャルにも絶望している気分だし。


〇うらしま左近『ムショクとなにもしないということについて』
なにかをするということに価値がないのなら、なにもしないということについて価値を求めるムショクは革命であるという論旨。
全体を見て思うのだが、滝本竜彦的ファッション無職、ファッション引きこもり
――彼は大学から引きこもり、更にはジャンプを買いに出ていけるし、バイトもできる引きこもりであった――
が少ない。
無職歴も長く、筋金入りの引きこもりたちばかりだ、信用に値する。
僕は院浪していた頃、ツイキャスを見ていたのだが、突待ち不登校女子が百人ぐらい集めてたりとか、それはまあ、恐ろしい界隈だった。
でも、挫折した自分には、ネットで声望集められるだけで、金にはなんないかもしれないけど、何らかの才能なんだよと思えてならなかった。
ネットは社会で認められない才能を認める受け皿なのか、それとも虚無を産んでいるだけなのか…。


〇たつざわ『ムショクのための節約術』
いや、そこまでするなら、働いて、収入を増やそうよ!とツッコミたくなる節約術
生活術でなく、節約術であるあたりが、確かにクール


〇どかい『青春の終焉、ムショクのはじまり』
三十歳で無職を迎えた執筆者のあとがき的なもの。
執筆者は人生の物語のなさというものが耐えられない問題とされていたらしい。
僕もまあ、自分がいつか報われるだろうということを信じる大学院生なので、将来は不安だったりする。
果たしてこれから自分が生き残れる保証は周りでこれだけ人が挫折している中であり得ないだろうと思うのだ。
特権的であるわけはないだろうと思うのだ。
神は自分を愛してはいないだろうと考えるべきだと説いたのはヴォネガットだったか。

タイタンの妖女

タイタンの妖女

なにものでもないという感覚は悪いものではない。
無職はアイデンティフィケーションの絶対的な不能性の前で立ち止まることができる。
僕も大学院生続けていてついに自分の院生という肩書が信じられなくなった。
親は二六歳で無収入なら無職みたいなもんだろと思っているし、周りは全員就職してフルタイムで働いている。
魯迅は政治から文学を志し、結局本格近代長編も書けず、政治や中国にも絶望し、なにものでもなくなった「寂寞感」を「阿Q正伝」で書いた。
彼は文学者でも政治家でもなく、時空間にどこにも存在しなかった。
アイデンティティや本質なんてイデオロギー的虚構なのである。
それを問題として書いた点で、魯迅カフカブリューゲルを超えた。

阿Q正伝・狂人日記 他十二篇(吶喊) (岩波文庫)

阿Q正伝・狂人日記 他十二篇(吶喊) (岩波文庫)

山の中の無職通信でこの感想録を締めたいと思う。
僕はいま、博士課程のわずかばかりの授業に出つつ、バイトもせず、大学のある山間に閑居し、会いたい人のみに会う生活を送っている。
生活は規律正しく、それを真っ当な更生生活と言えばそうなのだろう、でもそれを信じる気にはなれない。
論文はあるが、定期的に在宅作業でやればいい。
性欲にもさほど悩まされない。
山間の仙人のカウンセリングしか受けない、禅的な雪舟山水画みたいな生活を送っている。
世間に駆り出されるかもしれないが、嫌でしょうがない。
なんとはなしに、そんな山水画のような、虚無的な、エントロピーの安定した、霞の中に描線が消えていく世界に生きている。
また、楽しからずや。